咀 嚼


ゆっくりと噛み砕く


「あ、」




見なければ良かったと、気づいたのは遅くて。
肩越しに視線があったあの瞬間、あたしは何と思ったのだっけ。









あぁ、そうだ。
何かひどい感情を抱いた気がするが、それが一体どんな感情だったのかは
はっきりと思い出せない。
なんとなく寝付けない、夏にしては肌寒い夜中。
なんとなくフラフラと散歩に出かけたのがいけなかった。







階段を降りて寮を出る。
本当ならばしてはいけないこと。だけどなぜか目が冴えてしまっていたあたしは
その、見つかるかもしれないという少しのスリルが心地よくて。
妙に高鳴る胸を押さえ、パジャマの上にローブを羽織そっと飛び出した。
気持ちが良く差し込む太陽の光とは打って変わり、
今は小さな炎がたいまつの上で踊っている。あたしの影もその光でユラユラと踊った。



コツコツと自分の靴が地面を踏む音だけが響いて
そんな事にすら楽しいと感じたのはきっと、規則を破っているという気持ちがあったからで。
変に気分が高揚する。窓の外の月が美しい。
あの角まで行ったら引き返そう。そう考えて角までたどり着く。しかし
もう少し、もうひとつの角まで、そんな事が繰り返されて結局寮からどんどん離れていってしまう。
あたしは夜のこの雰囲気が大好きだったのだ。



いつも人が沢山いるホグワーツ。
しかし夜になればそこは幻想的な世界に早代わりする。
壁にかけられた絵からいびきが聞こえてきたり、気まぐれな階段がゆっくりと動く音がしたり。
そして真っ暗な闇の中から廊下を照らす月の光。
全てが気分を高揚させる要素。ただ、時々先生に見つかりそうになる事もある。
それはそれで面白い。
そして廊下から垣間見る、クィディッチのフィールドに聳えるゴールの輪が
月の光でぼんやりと暗闇に浮かんでいるのを見るのが、一番好きだった。
毎日あの場所で、真剣に練習を積むあの人を感じられるからだ。
クィディッチ馬鹿で、とにかく空が好きな、あの人。
入学してからずっと同じ寮で、クィディッチの話を耳にするとすっ飛んでくる。
はじめはなんとも思っていなかったのに。
あの人がレギュラー入りして初めての試合で垣間見た、真剣な熱い視線に
雨の中一人練習を続ける姿、クィディッチの話をするときのうれしそうな表情。
強く惹きつけられてしまった。



一度自覚してしまったものは、どうしようもとめられなく加速して行く。
気づかれないように想うのはなかなか根気がいる。
あの人の恋人はクィディッチだ。それがうれしくも、悲しくもある。
そしてあの人にとって、きっとあたしは徒の同級生程度でしかないに違いない。
バレンタインに、遠い島国の風習を真似てチョコをあげたのだけど、
あの人はもらったきり、感想を言ってこない。あの人は、そういう人だから。






不図、フィールドを見つめていた、窓ガラスに写った自分が
とろけた表情をしているのに気づいた。途端に気恥ずかしくなる。
誰もいないと知りつつも、急激に恥ずかしくなった。もう帰ろう。
あの人を想うだけで、あたしは変わってしまう。急に乙女になる。そうさせているのは、あの人。




そういえば、明日も練習をするのだろう。
明日はきっと晴れだ。何かお菓子の差し入れでもしようか。
そんなことを考え、何だか楽しくなって、ふふ、と小さな笑いがこぼれた。
足取り軽く、寮への道をたどる。
あの人に、いつか普通に差し入れが出来るようになりたい。オリバーの特別な人になれたら、良いな。
あたしは思わずにやける口元に手を添えた。恥ずかしすぎる。何て乙女な考えだろう。
一人顔を赤らめて、角を曲がった。









「あ、」








思わず、間抜けな声が口からこぼれた。
そして、声を出してしまったことを後悔した。
声を出さなければ、顔が見えなかったかもしれないのに。




「…っ、」




あたしは角に再び身を隠した。もう遅いけれど。






キス、していた。
一瞬だけど甘くとろけるような雰囲気が感じられた。
松明がぼんやりと辺りを照らす中、その光ですら彼らを演出しているような。
あこがれるような雰囲気だった。そのシーンを見てしまっただけでも気まずいのに。
何で、よりによって。否、なぜ。




オリバーが。





「…」





あたしは無意識に唇に指を這わせた。
そしてこみ上げてくる何かを抑えるように、口元を手で覆った。
オリバーがキスしていた。彼女の肩越しに視線が、カチリとあった。
あの、熱い視線があたしを一瞬捉えていた。


恋人の唇の熱に浮かされた、あたしの知らない瞳で。






急激に寂しくなる。
こんな時間に外を出歩いていた自分を憎む。
きっと見なければ、知らずにすんだのに。明日、またオリバーをそっと想うことが出来たのに。
ずるずると壁にそって座り込んだ。
コツコツと足音がこちらに近づいてくる。(あぁ、どうしよう、きっと彼女だ。)






「……」





角を曲がった、オリバーとキスしていた彼女と視線が合う。
なんともいえない圧迫感があたしを包み込む。(座っているからだろうか)
そして彼女は、あたしの雰囲気を感じ取ったのだろう、唇に一度指を這わせてから
小さく、口角を上げて、颯爽とその場を後にした。
コツコツと遠ざかる足音を耳に、遠くなる彼女の背中を見つめて、ぼんやりと立ち上がった。
ぼんやりと角を曲がると、気まずそうなオリバーがたっていて。




…今の…内緒にしておいてくれないか」






顔を赤らめて言うから、あたしは小さく、笑顔を顔に貼り付けるしかなくて。
あぁ、お願い、そんな、甘い顔をしないで。
目が合ったあの時、あたしは一体何と想ったのだっけ。










最後に嘲ったのが
あなただったら
良かったのに









あなたは あたしが恋焦がれている事なんて 知らないんだ